NOTE02
特に考えがまとまっていないまま書いてみる。
後に使い物になるかもわからない創作ノート及びお勉強のプロセスを公開するのは無茶苦茶かもしれないけど、思考のゴミみたいなものも併せてとりあえず一緒に残しておいてみようかと気まぐれに。
最近、「公園」が気になっている。
いったいなんだろこれは、みたいな。妙な興味ではあるが。
そもそものきっかけは北海道土産の木彫りの熊にペイントしたものを外で撮影したいが、どういうロケーションで撮ろうか考えていた時だった。
はじめは「サイバー都市みたいなロケーションで撮りたい」と思っていた。熊の形をした木の塊にアクリル絵具というケミカルな画材で色付けしたので、双方の「エセっぽさ」「ケバさ」がリンクして良いかなあとぼんやり思っていた。あと「なんで木彫りの工芸品のたいがいが”木の温もり”とか言って木目をそのまま出すやり方が主流なのか?」とか「古びた仏像なんかを見て”わび・さび”と言うけど、それもともとはギンギンギラギラに着色されてたやつじゃなかったっけ?(←最初から着彩されてないものもあるけど)」という思いなども巡っていたので、いっそ人工的でツルツルピカピカした場所が良いだろうと思っていた。(なんか書きながら安藤忠雄さんの打ちっぱなしコンクリ建築と無着色の木彫り工芸が同じ心性から端を発している気がしてならなくなってきた)
そういうわけで早速ロケハンをしたのだけど「サイバー都市なんていったいどこにあるんだろう?」という疑問にぶつかってしまった。丸の内や六本木や汐留などの候補地はあったのだが、実際に近くへ見に行くとこちらが予想したほどツルツルピカピカなものでもなく、「ほんのちょっと新しい」程度で、結局想像上の「サイバー都市」を上回るものではなかった。
ロケ地をはじめから検討しなければいけなくなったので、視点を変えて「木彫りの熊」について調べてみる事にした。
wikipediaによれば、
木彫りの熊(きぼりのくま)とは、日本の北海道で製造される手工芸品である。北海道土 産の代表的な品として知られている。基本的なデザインは四つんばいになったヒグ マが鮭をくわえているものであるが、現在では他にも各種のデザインが存在している。
由来
1924年(大正13年)、尾張徳川家の当主であった徳川義親は、旧尾張藩士たちが入植し た北海道の農場「徳川農場」が立地する八雲町の農民たちの冬期の収入源として、前年 にスイスから持ち帰った熊の木彫を生産するよう提案した。
このアイデアは当たり、「木彫りの熊」は八雲町に留まらない北海道の名産品として広く 認知された。
驚いた。アイヌ民族発祥のものだとばかり思っていたのだが、なんとスイス伝来の殖産興業品だったとは。この腰砕け感。へなへなとなりながらつい笑ってしまった。
直接的には関係がないとは言え、事のついでとばかりに、アイヌ民族やアイヌ民族にとっての熊についても調べてみた。
Wikipedia「アイヌ」http://p.tl/zqRf
Wikipedia「イオマンテ」http://p.tl/72nO
アイヌとヒグマhttp://www.yasei.com/ainutohiguma.html
北海道の先住民族であるアイヌには「カムイ」という言葉があり、これは自然界の全てのものに心があるという精神に基づいて自然を指す呼称らしい。つまり「神」なのだが、地上の自然界にあるものは「神」が仮の姿をして存在しており、それらを狩猟・採集しているのがアイヌ民族であった。
アイヌ民族は冬の終わりにまだ穴で冬眠している熊を狩る習慣があった。そこに冬ごもりの間に生まれた小熊がいると、集落に連れ帰り、人間の子供と同じように大事に1、2年育てた(母熊はその場で殺して持ち帰る)。その後に集落で盛大な儀式を行い屠殺し、解体して人々に振る舞ったらしい。この儀式を「イオマンテ」と呼ぶ。その宗教的な意味とは以下の通り。
ヒグマの姿を借りて人間の世界にやってきたカムイを1、2年間大切にもてなした後、見 送りの宴を行って神々の世界にお帰り頂くものと解釈される。ヒグマを屠殺して得られた 肉や毛皮は、もてなしの礼としてカムイが置いて行った置き土産であり、皆でありがたく 頂くというわけである。地上で大切にされた熊のカムイは、天界に帰った後も再度肉と毛 皮を土産に携え、人間界を訪れる。さらに人間界の素晴らしさを伝え聞いたほかの神々 も、肉や毛皮とともに人間界を訪れる。こうして村は豊猟に恵まれるのである。熊の再訪 を願うために、人間からの土産としてイナウやトノト(濁酒)、シト(団子)を大量に捧 げる。さらにイオマンテの宴で語られるユーカラは、佳境に入ったところでわざと中断す る。神が続きを聞きたがり、再訪することを狙うのである。
ーWikipedia「イオマンテ」よりー
アイヌ民族にとって「カムイ(神)」が仮の姿として熊になり、集落などの人間界と天界を繋ぐ場所である山や森に現れ、人間に幸をーもしくは災害をーもたらすというこの習慣はとても感動的だと思った。
これを自分の生きている場所に当てはめるとしたらどうだろうと考えた末に、「都市と自然の中間地点」である「公園」を思いついた。
「公園」は万物信仰の習慣を持つ「山の民」や「海の民」にはおそらく必要とされない。「都市の民」のみが必要とするものだろう。自然というかつて人々が生活のために利用していた場から隔離された「都市の民」が、都市部で自然と触れ合い、そして憩う「公共の場」として「公園」がある。
これは<天界ー自然ー人間界>であった関係が「天界ー<自然ー公園ー人間界>」という入れ子構造になっているのではないかと思った。もしくは「天界」を疎外した関係が発生していると言うべきかもしれない。
自然や自然現象に神を見出した時代から下り、人工物(偶像)を崇める時代になり、それがさらに下り神の死んだ時代(近代)になる。つまり崇める行為をおこなう場であった山や海や森が、寺や杜などになり、やがて公園になっていくという経緯がうっすら見える気がした。
ただ、その経緯にはどうにも不自然な、不自然というのは、「公園」というのは、明らかに何かを信仰する場としては使われていないということがある。既に書いた通り、「天界」を疎外した自然と人間との関係がそこには発生しているという事態があるからだ。
その事態とは具体的にはどういうことを指すのだろうか、という疑問が残った。
そのようなどこか歪で不自然な場所に対して、そもそもアイヌ神話発祥ではない木彫りの熊を使い、アクリル絵具という自然とは正反対の化学塗料で「木の温もり」や「わび・さび」を徹底的に排したブツ(仏ではない)を、公園という「神なき時代」の「公共の場」に置いてみたら何か見えてくるだろうかと思った。何も見えないかもしれないが、少なくとも面白そうだと思った。
そしてやってみたのが『KUMA!KUMA!KUMA!』です。移動したページの画像をクリックすれば次の画像に変わりますので見てみて下さい。これらは全て都内の公園で撮影しました。タイトルは仮題(タイトルをしょっちゅう変える悪癖あり)で、とりあえずあまり意味ないのですが「トラ!トラ!トラ!」という映画のタイトルを思い出しちゃったので。見たことはないのですが。。
実際はここから「公園」についてのお勉強ノートを延々書き始めているのですが、まだ終わる気配もないので、いったんここで区切りにしたいと思います。
次回は「近代公園史」についてです。
2012/04/19