3331アンデパンダン スカラシップ展始まりました。

ART EVENT TOKYO

抽象都市の風景画ーLandscape of Abstract City

1/26(土)から「3331アンデパンダン スカラシップ展」が始まりました。

2/17(日)までです。よろしくお願い致します。

 

展示の様子の記録を撮りました。

動いたり音が出ている作品もあるので、実際に見に来て頂きたいと思っています。

また、毎日在廊するわけにもいかないので、作品鑑賞の一助になればと思い、新たに書いた文章と昔書いた文章をまとめたプリントも置いてあります。

 

出し惜しみをするつもりもないので、こちらの日記でも写真に合わせて解説文のような雑文のようなものをアップしたいと思います。

注:ボリューム相当あります。また既にこの日記で書いた文章もいくらかあります。

 

こちらは僕の展示の全体像です。

 

 

順に作品の写真と文章を。

 

『抽象都市の風景画ーLandscape of Abstract City』

 

『Lines,Surfaces&Phases』

Lines,Surfaces&Phases

 

地方の温泉街などに行くと、その場しのぎの増改築を繰り返した結果、とても奇怪な形になってしまった旅館などをよく見かける。温泉のある場所というのは山や川など自然に囲まれた土地が多いせいか、地形に沿ってとんでもなく無茶なところに建物を増やしていたりと、人間の「業」と自然の「ままならなさ」が手を結び、そのまま奇怪建築の形となりそこに存在している気がして感動をおぼえることがある。

また、工場地帯のある土地に行くと、外から見たら何の役に立っているのか見当もつかない配管、ダクト、火を噴く煙突、蒸気の発する音、金属と金属が擦れる音など、何が起きているのかはわからないが、様々な現象が工場の外にいても窺い知ることができる。その工場で行われていることはもしかしたら、蚊取り線香のスパイラルを極限まで美しく成形するための機械をつくっていたり、女性のすね毛をきれいに抜去る機械の部品をつくるための機械をつくっていたり、はたまたカラオケパブのマイクが日夜浴びる無数のオヤジ・オバハン達の唾液の匂いや雑菌を防ぐため、超抗菌物質を金属に練り込む機械をつくっているのかも知れない。仮にそうではないとしても、とにかく自分の普段知っている世界とはほとんど無縁の論理で動いている宇宙が、そういった工場の内部にはあるのだろうと妙な確信を抱くことには変わりがない。このような「その場しのぎの増築旅館の全体像」や「用途不明の構造物だらけの工場の姿」などの、おそらく点で観れば機能そのものは具体的にちゃんとあるのだろうが、全体を眺めた途端にそれらの機能が途端にぼやけて抽象的になってしまうものに惹かれてしまう。

改めて思えば「都市」というものも、似たような生成の仕方をしている気がしなくもない。都市というのは、地方や郊外それに国外から様々な人々が大量にやってきて、出身や年齢や性差もあまり重要視されずに生きていける場所で、特に自分が定点観測してきた東京という都市は、各々がそれぞれ手前勝手に振る舞っているうちに大きく成長してきたような、俗に言う「グランド・デザイン」のない都市だと思う(正確には”できなかった”というべきか)。東京という都市の姿を見ると、人々がそれぞれの故郷などの文脈から切り離され、それぞれが抱く様々な思惑で勝手に関係を結び、そういった人たちがいつの間にか織りなす抽象的で奇怪な模様の織物のように感じることがある。その感覚は自分が飽きずにやり続けている何かをひたすら切ったり貼ったりしながらつくるものにもどこか通じている気がしている。

編集され文脈を与えられた何かを印刷物から切り抜き、パネルのような特定のサイズの空間(土地)に貼り込んでいく。ある紙片と隣り合ったり重なったりする別のある紙片は、何らかの「見立て」「見間違い」「錯視」の関係を結ぶように貼り合わされる。そういった作業を繰り返すことで新しい文脈や見え方や勘違いなどが生まれる。とは言え、その画面から何か伝えたいコンセプトなりメッセージが全体から醸し出されるようなこちらに都合の良いことが起きるわけでもない。ただただ空間内を細胞が分裂し神経がそこかしこに走っていくように埋めつくされやがて飽和していくだけだ。かつてシュール・レアリスト達が自動筆記やコラージュを使って人間の無意識をあぶり出し、「政治」や「社会」に対して「それらとは全く関係がないと思われているもの」をカウンターとしてぶつけるような政治的な意志も自分には正直言ってあまりない。ただただ「見立て」「見間違い」「錯視」を意図的に使い、淡々と抽象的な都市の「風景画」や「構造」を描いているつもりでいる。

そうやって描かれた都市というものは、実は「政治」や「社会」というロジックが働いている場の真裏にあり、孫の手でもないと掻けない背中のとある部分のような場所に淡々と存在していて、現在も表のロジックでは説明不能な奇怪な増改築を行っている気がする。

 

 

『吸殻花』『Bear Garden』

吸殻花、Bear Garden、夢の島、あるいは未完の廃墟ーpt.Ⅲ

 

『吸殻花』

吸い終わった煙草の吸殻は、吸う前は白かったフィルターがタールによって茶色く変色している。その変色の仕方も吸殻によってすべて違う。同じ円形の中に同じ色があるが、それぞれが違う色の出方をしている。同じ形をしているが微妙に違うフィルターを大量に集め、抽象的でミニマルな花のような曼荼羅のようなものをつくった。

 

『Bear Garden』

かつて北海道土産と言えば「木彫りの熊」であったが、それはいつしか「彫りの技術」の競り合いになっており、もはや「土産物」としての手軽さが値段の面でも見た目の面でも失われているのではないかと感じたことから制作した。地の部分と彫り跡に別色の絵具を塗ることによって各熊の彫り方の違いが鮮明に見えるようになり、むしろ彫師の技術や個性がはっきりと見えるようになった。

また、木彫系の民芸品でよく言われる「木の温もりを生かした」や「わび/さび」などの惹句に反応する人の感覚についても興味関心がある。素朴な木彫品や、かつてはケバかったはずの木地が剥き出しになった神社や仏像などが、どうして「良い」とされているのか。さらに「木彫りの熊」自体は近代以降の産物であるにも関わらず、いつの間にか近代以前のアイヌ神話と深い関係があるかのように存在しているのも興味深い。

そういったどこか胡散臭い新興宗教のような姿をした「木彫りの熊」を、煙草のフィルターでできた曼荼羅のような花を蓮に見立て、その上に置いたり周囲に配置してみた。

 

 

『夢の島、あるいは未完の廃墟』

夢の島、あるいは未完の廃墟

 

東京都の江東区という場所に生まれた。隅田川の東側に位置する地域である。「東京生まれ」というのもはばかられる様な無個性な地域である。ビッグサイトや現代美術館があるものの「だからどーした」と、それらに関係のない人間に言われればそれまでである。

「東京」といって思い浮かべるのが一般的にどんな町かといえば、やはり新宿や渋谷などだろうか。それらの町は消費活動における人々の夢や欲望を体現したような、いかにも東京らしい町である。それらの町を貫く一本の通りが 明治通りである。そして渋谷―原宿―新宿―池袋などの繁華街を貫く明治通りの最果てに、「夢の島」というところがある。

ゴミ焼却施設とそこから出された塵芥による埋立地からなる、東京湾に面したその土地は今も臨海埋立地の面積を拡大させている。そうした土地の創出とは反対に、その土地の活用の方向はいまだによくわからない。東京という大都市で唯一ともいえる広大な白紙状態の土地が、夢の島をはじめとする江東区の臨海埋立地区である。

この地には、あらゆる土地利用が可能であるという「可能性」や「未来」といった夢のみを担保にして、都市生活者が出した廃棄物がとめどなく集められる。そのような夢を描くことが可能な白紙の人工荒野を掘り返せば、そこには人々の夢や欲望の残骸が顔を見せる。

「夢の終わり」と「夢の始まり」が同居する場のようでいて、「夢の始まり」の方向が保留されたまま「夢の終わり」のみが「完全なる終わり」を迎える事なくジワリと堆積し増殖していく。その人工荒野の上空では海から吹きすさぶ潮風が、太古の昔から相も変わらずにせせら笑いと口笛を響かせる。

 

 

『夢の島、あるいは未完の廃墟ーpt.Ⅲ』

夢の島、あるいは未完の廃墟ーpt.Ⅲ

夢の島、あるいは未完の廃墟ーpt.Ⅲ

夢の島、あるいは未完の廃墟ーpt.Ⅲ

 

七夕の願い事を書いた短冊のように切り抜かれた女性誌のキャッチコピーは、それを見た者の中にある何かを刺激はするものの、彼や彼女をどこへも連れていかないし、何者かに変身させることもない。本来誘導すべき誌面の内容や商品写真などから切り離されて、薄っぺらい紙に印刷された言葉だけがただそこにある。少し前に家屋から表札だけを大量に盗んで捕まった男がいたが、彼のその行為にはどんな動機があったのだろうか。

それはともかく、「内容」の一端を表し「奥行き」へと誘導するための「入口」としての言葉のみが、本来の文脈と機能を失った状態で大量に集められると、それは何かを表す「文字」というよりは「文様」「模様」のようで、眺める者の心にいたずらに刺激を与えはするが、それ以上でもそれ以下のものでもなくなる。ただどの言葉に引っかかったか、という反応のみにおいて、そこにいた者の心を写す鏡のような働きをしているのではないか。その働きとは、見た者の「コンプレックス」、「女性の生態観察的興味」、「男性原理」、「風変わりなことば使いに対する興味」など、おそらくこれら大量のキャッチコピーを眺める者の中にある「欲望」の欠片を、引っ掛けてつかむようなものではないだろうか。つまり「意味」をつかんだり見出すこととは、それをする者の「欲望」と深い関係があるのではないかということだ。もっと突っ込んだ言い方をしてしまえば、「意味」とは「欲望」のことではないだろうか。

女性誌のキャッチコピーを大量に切り抜き「ただの言葉」としてフラットに扱うことで、それらが持つ「意味」の部分を強調しつつも同時に無化し、さらにそれを捕まえようとしてその実は捕まえられた者の「欲望」は前景化される。つまり「言葉の意味」を見ているようでいて、実は自身の内にある「欲望」を眺めているように思われる。

大量に切り抜かれた女性誌のキャッチコピーを眺めているとある事に気が付く。そこで使われている言葉は、「漢字」「ひらがな」「カタカナ」「アルファベット」「顔文字」「記号(例:♡や☆)」などと、様々な文字や記号が使われており、さらには「ゆるふわ」「ナチュGIRL」などの短縮表現も頻繁に使用されている。女性誌で使われる言葉や文字の様相は雑種的で、かつ変幻・伸縮が自在なようだ。それはいわゆる日常の文章や会話で使われる言葉ともいささか様子が違うように思える。女性誌というある種の聖域と化したガラパゴスで独自の変化を遂げたスラングなのだろうか。

その一方で「日本語」が生まれ、そして記されてきた歴史を眺めれば、これこそが常に外来文化を取り込みいつの間にか自分たちのスタイルへと消化してきた、「日本語」というものの最極北なのではないかという思いもある。

古くは大陸から輸入された漢字のみを用いた文書を書いていた官職の男たちのものであった「言葉」を、漢字とひらがなを交えて物語にしたためた紫式部の『源氏物語』からはじまり、短歌から俳句へと至る、極限にまで「意味」を切り詰めていく日本語表現まで。さらには欧米文化が流入してきた時代の外国語の「当て字」「カタカナ」表現からは、第二次大戦後に「POP」や「ROCK」文化が流入して来た時の、または「HIPHOP」というものが流れて来た時の、やがて「ポップ」「ロック」「ヒップホップ」と表記が変転していく消化の仕方を思ったりする。そして、女性誌のキャッチコピーというものが基本的には署名性を持つコピーライターによって書かれるものではなく、編集部による匿名的なものであるという事実に、『万葉集』に遺された「詠み人知らず」の歌をも思わせる。

そういった女性誌の言葉の中には表層的で限定的な「意味」だけではなく、太古から伝え継がれてきた「うた」「こえ」「おと」「ひびき」といったものが含まれているのではないだろうか。さらにはその言葉がもともと持っている「もの」「こと」「かたち」「いろ」なども見えてくるのかも知れない。「意味(欲望)」という限定的な「機能」を持たされる以前の「なにか」がかすかに、しかし確かに聞こえたり見えたりするような気がしている。

そこで「意味」や「機能」を半ば奪った短冊状の言葉を風にはためかせ読みにくくし、それらの言葉がさらに機能しづらい状況をつくった。さらにキャッチコピーの文言を息継ぎなしで発語し続けるデジタル音声を流し、音声の表す「意味」をも聞き取りづらくした。そうすることで見る(聴く)者が言葉の「意味」を追うのか、「意味」以前の「なにか」を追うのか、どちらでもできるような仕掛けにした。それによって「意味」が備わる以前の「なにか」から「意味」が起ち上がったり、その逆に「意味」を持っていた言葉から「意味」が漂白されて「なにか」へ還っていったりする瞬間に、見る(聴く)者が立ち会うことができるのではないかという思いがある。

その瞬間には何らかの「欲望」の源泉のようなものが朧げに感じられるのではないだろうか。仮にその源泉の姿がきらびやかな理想に満ちた「夢の島」であろうと、死ぬまで(あるいは死んでもなお)尽きることのない欲望でつくられる退廃的な「未完の廃墟」であろうといずれでも構わない。風や水のように絶えず動く「欲望」の形や音が混じり合い混濁し、彼岸と此岸の「境界・間・あわい」自体を感じることができないかと思った。


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