感覚以上、コンセプト未満

NOTE

Stevie Wonder/Don’t you worry ‘bout a thing

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この間、コンビニで買い物をしようとレジ前に並んでいたら、杖を持った盲人の女性が入店してきた。その女性は僕よりも若く見えたから20代後半くらいの女性で、入り口を入って一番近くのレジ前に立っていた。店は昼時をむかえて人がごった返していて、店員もその女性に気付いてはいるものの、並ぶ買い物客の接客を中断するタイミングもなかった。

自分の買い物を終えた僕はその女性のもとへ向かい耳元で「何を探してるの?」と尋ねてみた。女性は「お惣菜を」と答えた。僕はその女性の手をとって「あ、じゃあこっちに」と誘導しようとした。すると彼女は「あ、あの、店員さんはいませんか」と答えた。僕は「ちょっと待っててね」と言って店を見回し、パン売場で品出しをしていた店員を見つけたので「すいませーん、お惣菜どこですかー」と言いながら彼女の方を指差して、その店員に彼女を託してコンビニを後にした。

 

コンビニを後にして、というより、いまだにこうして日記にまで書いても素朴に不思議だなと興味深く思ってしまう。

どうして彼女は僕のことを「コンビニの店員」だと思わなかったのか。

こうして後になって文章にしてしまえばある程度は理由や理路みたいなものはわかる。

店員が「何を探してるの?」と馴れ馴れしい言葉遣いをするわけはないだろうし、もしかしたら買い物を終えた僕がコンビニ袋の音をシャリシャリさせながら近づいてくるのを感じたのかもしれない。あるいは彼女が普段からそのコンビニを利用していて、店員の声を憶えていたり、声のかけ方が耳元ではなく違う角度から聞こえてくるのかもしれない。いつもなら走って駆け寄る店員の風圧を感じずにふわっと歩いてくる僕を「この人は店員ではない」と思ったのかもしれない。

そして、おそらくその時の彼女にとって重要なのは「お惣菜を買う」という目的をいかにスムーズに遂行できるか、ということであって、誰かの優しさや気遣いというものは「買い物」とはまた別の次元に属するものなのだ。

後になれば「こういうことだったのかな」という憶測はいくらでも立てることができるとは思う。けれど僕がこのエピソードでとても興味が湧くのは、盲人である彼女がほぼ瞬間的に僕を「店員ではない」と認識できたことだ。

盲人の認識のすごさや、アウトサイダー・アートなどと呼ばれる時に使われるアウトサイダー、つまり通常の社会とは違う場所で生きる人々の表現のユニークさなどは、ことあるごとに扱われているテーマではある。

それらは当然と言えば当然だけど、普通に生きる人々との「初期設定」や「判断や表現に使う材料」の違いなどがあるから何らかの入出力があったときに結果が「普通ではない」となる。

そういうデータを集めることによって、彼らの認識の傾向であったり、癖(個性)であったり、初期設定のプログラミングを解析することができるだろうし、それによって「普通」との差異が見えてきたりするのだろう。

でも僕にはどうもなんともいえない不思議なかたちにならない液状のかたまりを抱えてる気持ちがまだある。

それはおそらく盲人である彼女が瞬間的に僕のことを”「店員ではない」と感じたこと”の理由や理路を理解したいのではなくて、”感じたこと”そのものに興味を”感じた”からだと思う。

それは普通に生きていても起きる現象だからだ。

「(なんとなく)この人、好き」とか「(なんとなく)ここを曲がってこっちの道を歩きたい」とか「(なんとなく)危ない」とか。

その局面ではいちいち理由や理路を説明などせずに何かを決めて動いていることを自覚して人は生きていない。

後で振り返ってあえて問うならこうこうこういった理由だったのかなあと思うことしかできない。

ただ後になって「まあこんなところで大きくは違わないだろう」と言葉にできるということは、動いているその瞬間には後に形を持ったり図式にできるような構造というかロジックの種みたいなものが液状でうごめいてる感じがするんですけどね、という話。

本質の周りをぐるぐるしてるだけで、いっこうに”感じる”という現象について触れられないもどかしさを抱えた文になってしまってるけど、自分が毎日なにかしらの作業をしていて後にそれらを眺めると「どういう意識でそれをつくったのか、今となってはぶっちゃけよくわからないがしかし、それをつくる局面では何かしらの判断基準に動かされている」というあやふやな手応えだけは手のひらに残っているのですよねえ。

「コンセプト未満」の領域のお話。

 


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