Landscape of abstract cityー抽象都市の風景画

ART NOTE TOKYO

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Richard”Groove”Holmes/Onsaya Joy

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地方の温泉街などに行くと、その場しのぎの増改築を繰り返した結果、とても奇怪な形になってしまった旅館などをよく見かける。

温泉のある場所というのは山や川など自然に囲まれた土地が多いせいか、地形に沿ってとんでもなく無茶なところに建物を増やしていたりと、人間の「業」と自然の「ままならなさ」が手を結んでそのまま奇怪建築の形となりそこに存在している気がして、妙な感動をおぼえたりする。

また、工場地帯のある土地に行くと、外から見たら何の役に立っているのか見当もつかない配管、ダクト、火を噴く煙突、蒸気の発する音、金属と金属が擦れる音など、何が起きているのかはわからないが様々な現象が工場の外にいても窺い知ることができる。

その工場で行われていることが、仮に蚊取り線香のスパイラルをより美しく成形するための機械をつくっていたり、女性のすね毛をきれいに抜去る機械の部品をつくるための機械をつくっていたり、カラオケパブのマイクが日々浴びる無数のオヤジ・オバハン達の唾液の匂いや雑菌を防ぐための超抗菌物質を金属に練り込む機械をつくっているのだとしても、とにかく自分の知っている世界とはほとんど無縁の論理で動いている宇宙が工場の内部にはあるのだろうと不思議な感慨を抱くことには変わりがない。

こういった「その場しのぎの増築旅館の全体像」や「用途不明の構造物だらけの工場の姿」などの、おそらく点で見れば機能そのものは具体的にちゃんとあるのだろうが、全体を見た途端にそれらの機能がぼやけて抽象的になってしまうものに妙に惹かれる。

改めて思えば「都市」というものも、似たような生成の仕方をしている気がしなくもない。

都市というのは、地方や郊外や国外から様々な人が大量にやってきて、出身や年齢や性差もあまり重要視されずに生きていける場所で、特に自分が定点観測してきた東京という都市は、各々がそれなりに手前勝手に振る舞ってるうちに大きく成長してきたような、俗に言う「グランド・デザイン」のない都市だと思う(正確には”できなかった”というべきか)。

東京という都市の姿を見ると、人々がそれぞれの故郷などの文脈から切り離され、それぞれが抱く様々な思惑で勝手に関係を結び、そういった人たちがいつの間にか織りなす抽象的で奇怪な模様の織物のように感じることがある。

その感覚は自分が飽きずにやり続けている何かを切ったり貼ったりしながらつくるものにもどこか通じている気がしている。

印刷物の中に編集(編んで集めて)され文脈を与えられた何かを切り抜いて、パネルやレコードのジャケットや紙といったある特定のサイズの空間(土地)に貼り込んでいく。

ある紙片と隣り合ったり重なったりする別のある紙片は、何らかの「見立て」「見間違い」「錯視」の関係を結ぶように貼り合わされる。

そうすることで新しい文脈や見え方や勘違いなどが生まれる。

とは言え、その画面で何か伝えたいコンセプトなりメッセージが全体から醸し出されるようなこちらに都合の良いことが起きるわけでもなく、ただただ空間内を細胞が分裂し神経がそこかしこに走っていくように埋めつくされやがて飽和していく。

かつてシュール・レアリスト達が自動筆記やコラージュを使って人間の無意識をあぶり出し、「政治」や「社会」に対して「それらとは全く関係がないと思われているもの」をカウンターとしてぶつけるような政治的な意志も自分には正直言ってあまりない。

ただただ「見立て」「見間違い」「錯視」を意図的に使い、淡々と抽象的な都市の「風景画」を描いているつもりでいる。

そうやって描かれた都市は実は、実際に「政治」や「社会」というロジックがちゃんと働く場の真裏にあり、孫の手でもないと掻けない背中のとある部分のような場所に淡々と存在していて、現在も表のロジックでは理解不能な奇怪な増改築を行っている気がする。

『WORKSーCollages』


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